困難は両手に宝物を抱えている
—経営に活きた女子大での学びと“津田スピリット”

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八丁地 園子 HATCHOJI Sonoko

学芸学部数学科 1972年卒業 

八丁地 園子
HATCHOJI Sonoko

1972年津田塾大学学芸学部数学科を卒業後、(株)日本興業銀行(現みずほ銀行)入行。調査・審査部門にて、経済モデル・企業モデル等構築、プログラミングを担当。1986年男女雇用機会均等法施行に伴い、総合職に転換。その後、金融商品開発・市場リスク管理業務など、当時の新金融分野の業務をはじめ、融資営業部門等の業務を担当。同行英国証券子会社IBJ-International-Plc.(ロンドン興銀)の取締役副社長、興銀リース(株)執行役員、藤田観光(株)常務取締役、日新製鋼(株)(現日鉄日新製鋼(株))社外取締役を歴任、経営に携わる。その間、並行して社会人大学院にてMBA、博士号を取得。現在は、津田塾大学学長特命補佐・戦略推進本部長であり、日本航空(株)、マルハニチロ(株)、(株)ダイセル、3社の社外取締役も務める。

本学数学科を卒業後、(株)日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行しキャリアを積み重ね、同行英国証券子会社など、複数の会社で経営にも携わってきた八丁地さん。50代で社会人大学院にてMBA、60代で博士号も取得するなど、仕事で活躍しながら学び続けています。現在、母校でもある津田塾大学で学長特命補佐・戦略推進本部長も務める八丁地さんに、当時の津田塾での学びや、女性が働くということ、生涯続く学びについてお話を聞きました。

「挫折の春」からはじまった大学生活

あまり熱心な学生ではなかった私が、そもそもこういった企画に登場していいのかと、やや不安なのですが。このような人でも、津田塾のおかげで社会に出ていくことができたという事例になるかなと思って、大学の寛容さに感謝しつつインタビューをお受けしました。

もともと材料工学を学びたくて、工学部を第一志望にしていました。そこに落ちて、津田塾の数学科にひろってもらったのですが、自分の不甲斐なさに相当ふてくされて、4月1日を迎えました。まさに「挫折の春」です。

入学して、学内の西寮に入寮しました。3人部屋で、同室の英文学科の友人たちはいつも熱心に英語の講読や音読に励み、エッセイなどを書いていました。私はいつも寮のベッドで小説を読んだり、ぼーっとして寝転がったりする日々でしたが、そのときに耳学問で得た英文学の知識は、後々たいへん役に立ちました。


世の中には、携帯電話なし、インターネットなし、寮の部屋にはテレビもなし。学生運動も盛んな時代ですから、友人との日々の会話は濃く、意味のあるものでした。当時の寮生活は「毎日がワークショップ、毎日が事例研究」のようで、思考力やコミュニケーション力を先輩や同級生に鍛えてもらったと思います。


入り口で苦労する学びほど、将来役に立つ

当時、英文学科と数学科だけだった津田塾大学では、どのような学びがあったのでしょうか。今でも印象に残っている授業や、エピソードがあれば教えてください。
数学科に所属していましたが、必修科目と重ならなければ英文学科の興味のある科目も取ることができました。授業で印象的だったのは「発音法」です。「発音って学問として成り立つんだ」と初めて知り、驚いたことを覚えています。

私が専攻した「数学」という学問はすぐに何かの役に立つという実感がわきにくく、在学中は気が付かなかったのですが、社会に出てから実はどの分野にも関係していて、物事を進めていくうえで大きな知恵となること、そして数学を知っていると活躍の範囲が広がることがわかりました。「神の御心を知るには、統計学を学ばねばならない」というフローレンス・ナイチンゲールの言葉は、まさしくその通りだと思います。統計学だけでなく、確率論、それらを支える代数、幾何、解析は、どんな仕事をするうえでも必要な知識です。仕事以外でも、議論を深めたり、人生を考えたりするうえで数学的な思考法は役立つでしょう。

グローバル化が進んだ現代では、価値観の異なる人びとが集団として何かを評価しながら判断し、進んでいかねばならないことが多々あります。そのときに頼りになるのは、やはり数学の学びで得た思考法、そしてData Oriented(データ指向)な事象の評価なのだと思います。IT化が進み時代が人工知能(AI)の領域にまで到達し、今後も進化が期待されますが、数学の必要性も級数的に増加するのではないでしょうか。

とは言っても、最初からこのように思っていたわけではありません。名著といわれる高木貞治先生の『解析概論』の最初の数十ページが理解できずに先へ進めず、あの大きな本を枕にうたた寝。今でもそのページを開くと涎の跡があります。運動に例えると、毎日準備体操や筋トレでうんざりしていたという感じ。でも、実はこれを怠っていては実戦に参加するわけにはいかないのです。社会に出てからは、もっとちゃんと数学に向き合っておけばよかったと後悔することもしばしば。世の中、入口で苦労するものほど魅力的、あるいは後でやってよかったと言えるものが多いですね。(もちろん、今だから言えるのですが)

「定年まで働きます」と答えた入行面接

当時は定年まで働く女性が多くはなかった時代。大学卒業後、(株)日本興業銀行(以下、興銀)に入行した八丁地さんは社会に出てからどのような経験をされてきたのでしょうか。
興銀に入行したのは、一番早く大学に採用活動に来た企業だったからです。その頃は、興銀がどのような銀行かは詳しく知りませんでしたが、一橋大生に聞いたところ「普通の銀行とは違い、産業界との繋がりが深い」とのこと。当時はよくわかりませんでしたが、直感的に面白そうだなと思いました。

とにかく、長く働ける企業がよいと思っていました。そのきっかけとなったのは、父が勤める化学メーカーの業績悪化という幼少期の経験でした。父が就職した当時、ちょうど戦後の高度成長期がスタートする時期で「三白景気」といって、三つの白いもの(砂糖、パルプ、肥料など)を扱う企業はとても景気がよかったのです。父は戦争から帰ってきて、その会社へ就職。入社当初は大変業績がよかったものの、アジア諸国の追い上げが始まり過当競争に巻き込まれていきました。

次第に業績が悪くなり、しまいには給与遅配が3ヶ月ほど行われました。当時はクレジットカードも無い、完全なる現金主義の時代。毎月の家計に窮することになり、母は大変困っていました。その時、小学生ながら「生きていくには、自分の手で稼ぐことが大事」だと思いました。

そんな経験もあり、長く仕事を続けたいと思っていた私ですが、当時は女性が働き続けるという考え方があまり浸透していなくて。入行面接の際、ある面接官から「あなたは、いつまで勤めるつもりですか?」と聞かれて「定年までです」と答えたら、居合わせた3人の面接官が大笑いして「元気がいいね!」と。津田塾の先輩方が毎年定期的に入行し活躍の実績もあったため、私も無事に内定をいただくことができました。

私が定年(当時は55歳)になったとき、当時の面接官に「私、定年まで勤めました」と言いに行きたかったのですが、銀行がちょうど合併を発表した時期と重なり……。いくら自分の考えを貫きたくても、環境が大きく変化するということがあるということを実感しました。



情報分野のスピードに追いつこうと懸命に働き、学んだ銀行時代

八丁地さんは、いわゆる「ガラスの天井」を破ってきた女性リーダーのロールモデルと称されることも。これまでどのように苦難を乗り越えてきてこられたのでしょうか。
当時「ガラスの天井」という言葉はなかったので、そのようなものがあるとは気づいていませんでした。ある日、同期の男性から「八丁地さんはいいよね、昇格できなくても『女性だからしかたない』って思われる。むしろ『あの人、実力あるのにね』と、そこが強調されるよね。でも、僕は男だから昇格できないと『実力がない』って単純に思われちゃうんだよ」と嘆かれて、なんとも複雑な気持ちになるとともに「ああ、そういう考え方もあるんだ」と逆に視野が開け「男の人も大変だな」と思いました。

時として興銀は、学歴・男女に関係なく優秀な人を抜擢し、いろいろなチャンスを与えることもあり、「一生懸命やれば面白くて権限のある仕事に就かせてくれるんだ」と思いました。またそう信じられるような人間関係が興銀にはありました。

当時の銀行で数学科の卒業生が担当したのは、システム部門で基幹システムをつくる仕事と、調査・審査部門でモデルをつくる仕事の大きく二つに分かれていて、私の担当は後者でした。経済がどのように回っていくのかをモデル化したり、企業や業界がどうなっていくかを推測するモデルを構築したりするのが仕事です。数学科を卒業して、ある程度の統計確率論やプログラミングはできたけれど、情報科学は急速に進化するうえに、経済、財務、法律の知識も必要でした。

そのため、「ガラスの天井」というよりも自分が何も知らないということ、自分の不甲斐なさや実力のなさ、「ガラスの(ようにもろい)実力」をどのように強化すればよいかということを日々考えていました。

職場で研修に参加させてもらったり、自分で勉強したりするのですが世の中の変化、そして成長のスピードはとても速いものであり持続した学びが求められました。そこで情報処理の資格試験や簿記、税理士資格試験などを科目や級ごとに毎年受けることで、どうにか勉強を持続させていきました。これらの試験科目には統計学や確率論、そして経済、財務、税法が含まれますし、資格試験は試験日が決まっているので、逆算して勉強を始めます。私のスケジュール管理を資格試験にしてもらっていたみたいな感じでしたね。

赴任した英国で役立った、津田塾の学び

銀行のさまざまな部門で働き、ご活躍しておられた八丁地さん。その後、海外でのお仕事も経験されたとのことですが、環境が大きく異なる場所でどのように働いていたのでしょうか。
世の中も変わり、1986年に「男女雇用機会均等法」が施行されます。ある日、上司に呼ばれ「総合職に転換しないか」と言われたんです。そのとき初めて「自分は一般職なんだ」と、認識しました。今と何が違うのかと聞いたところ、異動があるとのこと。もともと希望していたので願ってもないことと転換を決意しました。

異動先は、金融商品開発部。この部署では新商品を開発すると、融資営業担当者と取引先を訪問し、商品説明をします。取引先の企業にとっては、融資の条件交渉など銀行における伝統的営業業務がミーティングの主な目的なのですが、日本では先物為替取引の実需原則撤廃により金融商品が開発され、取引先は勉強も兼ねてその話も聞きたいということになり、そんな経緯でいくつかの企業に出入りするようになりました。取引先訪問の際に耳にする伝統的な融資営業の業務がなんだかとても面白そうで、次第に融資営業に興味が湧いてきました。そのことを上司に話すと、人事部に相談していただけるとのこと、ありがたいと思いました。

当時、銀行が心配したのは、(現在では考えられないことですが)女性を営業担当にすることで、取引先からその企業を軽視しているように思われ、取引関係になんらかの悪い影響をおよぼすのではないかという点でしたが、金融商品の説明で長らく通っていた取引先の方々が「八丁地さんだったら知っているから、大丈夫」と言ってくれたらしいんです。当時は、そんな人事部や上司の心配、取引先の心遣いなどは全く知らず、念願叶って銀行の伝統的業務である融資営業部門に嬉々として異動しました。

取引先の方々には本当にいろいろと教えていただき、今でも続いている親交は私の宝物でもあります。

その後、興銀の英国証券子会社に副社長として3年ほど赴任することになりました。当時、娘は中学受験目前だったのですが、夫も海外出張の多いメーカーに勤めていたので、全寮制の中学をいくつか受験させました。幸い入学が決まったため、単身で渡英しました。35ヵ国から集まった異なるバックグラウンドをもつ従業員数450人くらいの会社で、日本人は20人前後でした。日々仕事をしていくには他国籍の管理職たちと心を通わせなければなりません。そこで役立ったのが、実は津田塾での学びでした。在学中に使っていたJ. Johnstonの統計学テキスト『econometric methods』です。イラン出身のイギリス人で市場部門長だった同僚がロンドン大学で学んだテキストも、まさしく同じものだったんです。それが分かってから、彼は私を信頼してくれるようになり、非常にうまく人間関係がスタートしたことを思い出します。彼とはその後もさまざまな苦楽をともにしました。

J.Johnstonの統計学テキスト「econometric methods」。
同じテキストで学んだ市場部門長と、オフィスにて。
もう一つ役立ったのは、寮生活の耳学問で得た英文学の知識です。シェイクスピアはもちろんのことキーツ、シェリー、バーンズ、ブラウニング等。寮の友人が口にしていた英文学の知識がここで役に立ちました。たとえ稚拙な英語でも、英国人スタッフや欧州の取引先と親しくなるのに話題には困りませんでした。ただやはり、担当していた市場業務はスピードが命。35ヵ国のお国訛りの英語でのやり取りは、収益が絡むだけに神経を使い、最初の1年は夜になるとクタクタでした。

滞在も3年目でようやく慣れてきた頃、230年近くの歴史をもつシティ最古のマーチャントバンクであるベアリングブラザーズが破綻しました。その影響を最小限に留めるべく、何日も眠れない状況が続きました。アップダウンの激しい証券業界は、景気が悪くなるとみなどうしても鬱々としはじめます。そんなとき、同僚の一人が「神様は、必ず見ていますよ。やけにならずに、淡々とできることから努力しましょう」と言ってくれて。今でも、苦境に陥るとあの時の彼の言葉を思い出します。

好奇心を原動力に、働きながら学び続ける姿勢

英国から帰国後、社会人大学院にてMBA、博士号を取得されるなど卒業後も学びを深められてきたとのこと。働きながらも学び続ける原動力はどこから生まれるのでしょうか。
当時、興銀にはファイナンシャルテクノロジー部という研究所のような組織があり、デリバティブやリスク管理の研究が行われていました。理系の人間にとって憧れの組織であり、何人もの院卒の天才が働いていました。そこにアドバイザーのような形で、ある国立大学の先生が指導をされていました。私のような中途半端な理系はとても入れない集団で、いつか指導を仰ぎたいと思いつつ、なかなかそのような機会はありませんでした。

ところがある日、その先生が丸の内に近い私立大学に移られたと聞きました。しかも、社会人大学院を担当なさるとのこと。これなら仕事帰りに通えると思い、受験することにしました。いわゆるMBAの勉強というより、数理ファイナンス寄りで面白かったです。10名ほどの少人数ゼミで、平日の仕事帰りや土曜など平均週3日ほど通っていました。当時在籍していたリスク管理部の業務と関連する講義内容が多く、大学院での学びを日頃の実務に活かすことができました。博士号取得は、そのまま「ゲーム理論」を勉強したくて、許される年数長々と通っていた結果です。
このように社会人になってから、もう一度「学ぶ場」を外にもつことを皆さんにもおすすめします。新しい知識を身に着けるという意味、また社会に出て経験したことを整理するという意味でも。そして、意外にも効果があるのは、日頃組織にいるとどうしても抱えてしまうストレスの解消ができるということ。勉強は、確実に進歩している自分を日々認識できるもの。組織で行う仕事はかならずしもそうではないし、人間関係もいつも幸せな環境の中だけで働けるわけではない。そんな時、組織を辞めるというのも一つの手段だけれど、そこからある程度距離を置くための「場」をもつというのもいいアイデアだと思います。違う視点から仕事を見ると、自分の環境をわりと冷静に見られるようになります。自分の頭を切り替えるような、もう一つ異なるチャンネルをもってみる。切り替えができる場をもっていることで、例え一つの場で嫌なことがあったとしても「自分には、このチャンネルもあるから」と、そのときダメになってしまいそうな自分の支えになる。そうした意味でも、大学院はとても楽しく有意義に学べましたね。
お仕事と勉強、そして子育てを同時にこなされていた八丁地さん。苦労されたり、大変だと感じたりしたことはなかったのでしょうか。
よく両立で悩まれる方がいらっしゃいます。私の場合、仕事と勉強は自分でコントロールできたのであまり問題なかったのですが、仕事と子育て、これは大変でした。

私は両立できていなかったんじゃないかなと思います。子どもが小さいときは、熱を出して急に仕事を休んだり早退したり、職場の人には迷惑をおかけしたと思います。当時の職場の人たちには、どんなに感謝してもしきれません。だからロールモデルと言われると違和感があります。ロールモデルと言えるのは、「小さな子どもを抱えながら働く母親を支える同僚のあり方」を示してくれた興銀の同僚たちだったと思うのです。

また、夫や娘も極めて大変だったと思います。当時の一般的な家庭のあり方からは、はずれていましたから。お母さんがいつも家にいてあれもこれもしてくれる家庭ではなかったので。ある朝、保育園に娘を連れて行ったら、皆がリュックを背負っている!「あら、今日は遠足だったんだ!」と、その場で気づき、パン屋でサンドイッチを買ってもたせたことを思い出します。その結果、夫も娘も私を当てにせず(当てにできない)自分のことは自分でする人間になりました(笑)。実は娘も津田塾の国際関係学科を卒業しました。海外の大学院に進み、今はメーカーに勤めながら子育てをしています。生き方は個人の自由ですが、娘も私と同じような道を歩んでいるのはなんだか嬉しいですね。ひどい母親でしたが、私の生き方、否定はされていないなと。(笑)

卒業生として、働く女性として、伝えていきたい「津田スピリット」

2017年には母校津田塾大学の学長特命補佐・戦略推進本部長に就任されました。どのような思いで大学の仕事に取り組まれていますか。また、いまの女性たちに伝えたいことを教えてください。
私が学長特命補佐を拝命したきっかけは、2017年6月に策定した中長期計画「Tsuda Vision 2030」でした。中根千枝先生*のリーダーシップのもと、学内外の関係者のご協力をいただき、津田塾大学のあるべき姿を約1年かけて議論。モットー、ミッション、そして5つのビジョンを策定しました。その際に、実務サイドの取りまとめ役としてプロジェクトに参加したことがきっかけで、学長特命補佐としてビジョンの実現に向けたお手伝いをすることになりました。

企業と大学、それぞれ異なる目的の組織を同時に経験すると面白いことに気づきます。例えば、「組織の価値」についてです。企業での「企業価値」は、アウトプット(実績や将来性)を重視して測ります。一方で、「大学の価値」という話になると、なぜか偏差値が幅を利かせます。これって、インプット(入学時の受験学力)なわけで、よく考えてみると変ですよね。偏差値は、高校の教育実績を測るものだと思います。最近でこそ、就職実績・研究力・国際力等を計測した大学ランキングのようなものが各種機関から出てきていますが、まだまだ試行段階のようです。

大学の価値をどのように伝えるか、これは大学にとって大きな課題です。丁寧に、愚直に、迅速に、大学の考え方、取り組み、そして実績を世の中に説明していくことかと思いますが、やはり大事なのは、学生をどのような人に育てたいかと言うところにあるかと。
*中根千枝:津田塾大学卒業。社会人類学者で特に、インド・チベット・日本社会に関する専門家として国際的に著名な研究者。女性として最初の東京大学教授また、日本学士院会員でもある。学者として女性で最初の文化勲章を受章。
「変革を担う、女性であること」、「Tsuda Vison 2030」では、これをモットーとして掲げています。そして本学は創立以来120年間、このような女性を育成してきました。

人生山あり谷あり! 大学卒業後、たとえ困難に直面したとしても、精神的に豊かで、社会をよき方向に変え、維持することができるような「生きる力」の種火を在学中に与える仕組みが本学にはあります。それは「それぞれの時代に即した専門分野・知識」と「いずれの時代にも通用するものの考え方の根幹となるリベラルアーツ」、そして本学の一人ひとりの学生に対するケアの深さ・丁寧さです。

「少人数教育」は最近では教育業界でもよく聞かれるようになりましたが、本学が建学以来実践してきたことです。単に人数が少ないということだけでは、ケアの深さ・丁寧さは保証されません。本学の教員による熱心な教えと、職員の丁寧なサポートがあってこそ成り立っています。これも、津田塾の文化・伝統といえるもので、一朝一夕でできるのではないと思っています。高校卒業後大学に入学してからの学びを、単なる一過性のものとして終わらせるのではなく、生涯にわたり続く学びの素養、そして津田スピリットを得られる場になっているのだと。卒業生の活躍を見ていると特にそう感じます。そのスピリットを活かすも消すも個人次第ではありますが、その成果は3万人の卒業生の生き方に証明されています。

これらの本学の長所を活かしつつ、少子化という新たな経営的困難を乗り越えていかねばなりません。ビジョンを実現するのは「言うは易く行うは難し!」。教職員のみなさんとともに、四苦八苦し、工夫しながら進めています。「困難は大きいほど、乗り越えた時の宝物は、大きいはず!」。そう信じて、毎日過ごしています。

高校生のみなさん、学生のみなさん、働く女性たちにも、この言葉を送りたいと思います。
「困難は両手に宝物を抱えている」
(“Every problem has a gift for you in its hands” by Richard Pack)。
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