自立した女性でありたいという思いがより強くなった4年間
長男として常に父から期待されていた3歳年の離れた兄。幼いころから成績優秀で、私にとって自慢の存在でした。一方、私はというと、やんちゃであまり勉強が好きなタイプではなく、よく父に叱られていたことを今でも覚えています。しかし、兄が中学受験をした頃から、私も受験したい、父からもっと期待されたいと思うようになったのです。私も無事に合格し、兄と同じ学校に通うことになりました。中高一貫校だったため、兄は高等部におり、やっと追いつけた、と思えるようになりました。ただし父からの期待は相変わらず……。「女性は大学に行かなくても、働かなくてもいい。いい人を見つけて結婚すれば幸せだ」と頑固な父の考えは変わることなく、やはり常に兄のことを気にかけていました。父からの「期待の差」は、当時の私にとっては葛藤であり、現在の私が常に自立した女性でありたいと思う原動力でもあります。
高校生の頃、私が医師になるために医学部を受験したいと伝えたときも、「女性が医者になる必要はない」と父の考えを変えることはできませんでした。父が育った時代の風潮であり、家長として、経営者として家族を守り、経済的に何不自由なく家庭を支えてきた人並ならぬ責任感の強さから発せられた言葉だと社会人になった今では理解できます。しかし、当時は兄との期待の差にただただ葛藤し、女性として生まれてきたことをとても悔しく思ったことを覚えています。
一方学校生活では、中高一貫のバカロレア認定コースを有する学校のもと、のびのび個性を伸ばしながら育ってきた私は、常に「学びたい、自立したい」という思いが強くありました。幼いころ祖父を癌で亡くし、漠然と医師への道を志してはいましたが、一方で父の加護の元ぬくぬく育った自分がさまざまな壁を乗り越えて医師になることへの不安もありました。そんな中、大学選びも終盤になり、もう少し世界規模で自分の視野を広げるためにリベラルアーツを学びたいと考えるようになったのです。大学受験終盤で進路変更をしたため、不安から多くの大学を受験し、最終的にどの大学にするのか、選択するのにとても苦労しました。自分なりに調べたり、経営者でもある父の友人の意見を聞いたりする中で、津田塾の国際関係学科であれば、自分に合った学びを見つけ、幅広い知識を身につけることができると考え、入学を決めました。当時は本当にこの選択は正しかったのか、という迷いもありましたが、現在はこの選択をしてよかった、この決断無くしては今の自分はいないと断言できます。
高校生の頃、私が医師になるために医学部を受験したいと伝えたときも、「女性が医者になる必要はない」と父の考えを変えることはできませんでした。父が育った時代の風潮であり、家長として、経営者として家族を守り、経済的に何不自由なく家庭を支えてきた人並ならぬ責任感の強さから発せられた言葉だと社会人になった今では理解できます。しかし、当時は兄との期待の差にただただ葛藤し、女性として生まれてきたことをとても悔しく思ったことを覚えています。
一方学校生活では、中高一貫のバカロレア認定コースを有する学校のもと、のびのび個性を伸ばしながら育ってきた私は、常に「学びたい、自立したい」という思いが強くありました。幼いころ祖父を癌で亡くし、漠然と医師への道を志してはいましたが、一方で父の加護の元ぬくぬく育った自分がさまざまな壁を乗り越えて医師になることへの不安もありました。そんな中、大学選びも終盤になり、もう少し世界規模で自分の視野を広げるためにリベラルアーツを学びたいと考えるようになったのです。大学受験終盤で進路変更をしたため、不安から多くの大学を受験し、最終的にどの大学にするのか、選択するのにとても苦労しました。自分なりに調べたり、経営者でもある父の友人の意見を聞いたりする中で、津田塾の国際関係学科であれば、自分に合った学びを見つけ、幅広い知識を身につけることができると考え、入学を決めました。当時は本当にこの選択は正しかったのか、という迷いもありましたが、現在はこの選択をしてよかった、この決断無くしては今の自分はいないと断言できます。