第6回 学生スタッフレポート
私の学び方 人の生き方から学ぶ
土屋 春代 氏(有限会社ネパリ・バザーロ会長、特定非営利活動法人ベルダレルネーヨ共同代表)


こんにちは!
「総合2024」第6回、5月23日(木)の講演は、有限会社ネパリ・バザーロ会長で、特定非営利活動法人ベルダレルネーヨ共同代表の土屋春代さんにお越しいただきました。「ネパリ・バザーロ」は、ネパールの子どもたちへの教育支援や奨学金支援、子どもたちの保護者に仕事をつくる活動をしているほか、国内の障がいのある方たちなど、立場の弱い方たちの仕事づくりも行っています。これらの活動の傍らで、東日本大震災をはじめとした被災地への支援にも尽力されているそうです。 今回は「活動の原動力は“学び”だ」と仰る土屋さんに、「私の学び方 人の生き方から学ぶ」というテーマで、これまで出会った方々とのエピソードをオムニバス形式で語っていただきました。
土屋さんはご自身が中学生の時、ネパールの子どもたちの教育状況の不十分さや衛生環境の厳しさを知り、強く衝撃を受けたそうです。それ以来「自分に何かできることはないか」と、教育支援活動に勤しんでいらっしゃいました。また、土屋さんは幼少の頃から「戦争」にまつわるお話や歴史に深い関心をもっていたといいます。 本講演の中でも、土屋さんが現在の活動に至るまでに影響を受けた、多くの「戦争経験者」の方たちのお話が展開されました。土屋さんは彼らとの直接的な対話や資料閲覧を通して、彼らの人生や戦争の経験談を、ご自身の「学び」につなげてきました。その中から、特に印象に残った3名のお話を紹介します。
1人目は渡辺正敏さん。渡辺さんは現在山形県山形村で山ぶどう農家をされています。「ネパリ・バザーロ」の活動の一環として行っているワイン事業で、土屋さんは渡辺さんと出会いました。満州国にてこの世に生を享けた渡辺さんは、幼くして戦争の被害者となりました。お父様は徴兵され、年端もいかない渡辺さんは、お母様と幼い弟妹たちとともに疎開していました。終戦後も、渡辺さん親子はソ連軍に追われて逃げなければならない状況にありました。日本に逃避行しようにも、幼い弟妹はともに連れて行けず、川に投げ入れたり、満州鉄道の線路の上に置き去りにしたりして満州国に置いていったといいます。渡辺さんのご両親は日本への帰還に成功しましたが、ご兄弟の中では長男である渡辺さんただ1人しか帰還することができませんでした。家族と離れて行動することとなった渡辺さんは、当時5歳にして単身で何百キロも歩き、日本に身を移しました。その後、山形県にて山ぶどうの生産を生業として仕事を始めた渡辺さんは、現在山形の地で穏やかに暮らしています。
2人目は阿波根昌鴻さん。阿波根さんは沖縄を代表する平和活動家で、「沖縄のガンジー」と呼ばれた人です。土屋さんと阿波根さんの出会いは、土屋さんが「ネパリ・バザーロ」での活動の一つ「沖縄カカオプロジェクト」のために沖縄に訪れた時に遡ります。1984年に阿波根さんは「ヌチドゥタカラの家」(「ヌチドゥタカラ」=「命は宝」)という反戦平和資料館を設立しました。ここでは当時の人々が着用していた衣類や荷物が壁一面に展示されています。この資料館を訪れた方の中の1人が「血の匂いでいっぱいだった」と感想を残すほどに、当時の人々の様子をそのまま、リアルに残している場所です。展示されている衣類の中には、赤ん坊の血のシミがついたものもあります。これは、米軍の弾丸が赤ん坊の母親に直撃し、そのもとからスポリ、と赤ん坊が落下した時についたシミだそうです。阿波根さんは2002年に亡くなられましたが、土屋さんは「ヌチドゥタカラの家」を訪れるたびに、「阿波根さんに何度も出逢いなおしている」といいます。
3人目は寺内博中尉。寺内中尉は沖縄戦にて活躍し、殉職した特攻隊員です。土屋さんは、「沖縄の黒糖を扱うには、まずは沖縄について知らなければならない」と思い、沖縄の海について調べはじめました。この沖縄の海にはおよそ3000人の特攻隊員が眠っているそうです。そして、土屋さんと寺内中尉との出会いは、1975年に発行された書籍『村と戦争』にあります。土屋さんのお話は『村の戦争』に記載されている寺内中尉についての内容を軸に展開されました。寺内中尉は特攻隊員として出撃し、米軍との空中戦の末に命を落とし、その遺体は不幸中の幸いか、浜に打ち上げられていました。このことを、土屋さんは「特攻隊の遺体漂着」という章で知ります。享年20歳。あまりに早すぎる青年の死に沖縄でも多くの人々が嘆き、悲しみました。寺内中尉は戦争の真っ只中であっても、家族と近況や思いなどを伝える文通をつづけていたといいます。若くして星となった青年の決死の覚悟を通して、人々の戦争反対への思いはより強固なものとなりました。その裏付けとして、寺内中尉の遺族による慰霊祭が毎年のように行われています。土屋さんも寺内中尉の勇姿に魅せられ、彼を愛した人の内の1人です。
終始、胸の奥から鉛がせりあがるような気持ちで講演を聴いていました。決して楽しい内容ばかりではありませんでしたが、土屋さんの朗らかな話しぶりから、繰り出される凄惨な太平洋アジア戦争の歴史の一片が、私の脳裏に深く刻まれたと断言できます。土屋さんはご自身の学びを深める際や「ネパリ・バザーロ」での活動の際に、彼らの生き様を思い出し意識して物事を考え、活動に取り組んでいるといいます。また、土屋さんの堂々とした振る舞いや発言も印象に残りました。講演終盤の質疑応答の時間にて、学生からの質問に「人生は豊かになった」、「(このような学びは)お金では買えない」、「人こそ財産」と迷いなく回答していた姿は恰好よく、人を大切にしてきた土屋さんならではの言葉であるな、と思いました。
最後に、講演の中で感じた、私たちにもできそうな「学びの活かし方」を紹介します。土屋さん曰く「想像力を駆使すること」がこうした学びの有効的な活かし方なのだそうです。他者の話ではあるが、他人事として処理せず、自己投影を図ること。そうすれば、自ずと自身の「学び」につながるのだ、と土屋さんは主張します。私はこれまで、他者の話や物事を平面的に捉え、「教科書に記載していることだから」、「でも自分とは関係ないから」などと少し引いた目で価値判断をしがちでした。しかし、土屋さんの「想像力を駆使して自己を当てはめてみる」といった方法を知り、平面を立体にすることで現実として捉えるという視点があることに驚きました。
皆さんもこの「学びの活かし方」を実践してみてはいかがでしょうか。
「総合2024」第6回、5月23日(木)の講演は、有限会社ネパリ・バザーロ会長で、特定非営利活動法人ベルダレルネーヨ共同代表の土屋春代さんにお越しいただきました。「ネパリ・バザーロ」は、ネパールの子どもたちへの教育支援や奨学金支援、子どもたちの保護者に仕事をつくる活動をしているほか、国内の障がいのある方たちなど、立場の弱い方たちの仕事づくりも行っています。これらの活動の傍らで、東日本大震災をはじめとした被災地への支援にも尽力されているそうです。 今回は「活動の原動力は“学び”だ」と仰る土屋さんに、「私の学び方 人の生き方から学ぶ」というテーマで、これまで出会った方々とのエピソードをオムニバス形式で語っていただきました。
土屋さんはご自身が中学生の時、ネパールの子どもたちの教育状況の不十分さや衛生環境の厳しさを知り、強く衝撃を受けたそうです。それ以来「自分に何かできることはないか」と、教育支援活動に勤しんでいらっしゃいました。また、土屋さんは幼少の頃から「戦争」にまつわるお話や歴史に深い関心をもっていたといいます。 本講演の中でも、土屋さんが現在の活動に至るまでに影響を受けた、多くの「戦争経験者」の方たちのお話が展開されました。土屋さんは彼らとの直接的な対話や資料閲覧を通して、彼らの人生や戦争の経験談を、ご自身の「学び」につなげてきました。その中から、特に印象に残った3名のお話を紹介します。
1人目は渡辺正敏さん。渡辺さんは現在山形県山形村で山ぶどう農家をされています。「ネパリ・バザーロ」の活動の一環として行っているワイン事業で、土屋さんは渡辺さんと出会いました。満州国にてこの世に生を享けた渡辺さんは、幼くして戦争の被害者となりました。お父様は徴兵され、年端もいかない渡辺さんは、お母様と幼い弟妹たちとともに疎開していました。終戦後も、渡辺さん親子はソ連軍に追われて逃げなければならない状況にありました。日本に逃避行しようにも、幼い弟妹はともに連れて行けず、川に投げ入れたり、満州鉄道の線路の上に置き去りにしたりして満州国に置いていったといいます。渡辺さんのご両親は日本への帰還に成功しましたが、ご兄弟の中では長男である渡辺さんただ1人しか帰還することができませんでした。家族と離れて行動することとなった渡辺さんは、当時5歳にして単身で何百キロも歩き、日本に身を移しました。その後、山形県にて山ぶどうの生産を生業として仕事を始めた渡辺さんは、現在山形の地で穏やかに暮らしています。
2人目は阿波根昌鴻さん。阿波根さんは沖縄を代表する平和活動家で、「沖縄のガンジー」と呼ばれた人です。土屋さんと阿波根さんの出会いは、土屋さんが「ネパリ・バザーロ」での活動の一つ「沖縄カカオプロジェクト」のために沖縄に訪れた時に遡ります。1984年に阿波根さんは「ヌチドゥタカラの家」(「ヌチドゥタカラ」=「命は宝」)という反戦平和資料館を設立しました。ここでは当時の人々が着用していた衣類や荷物が壁一面に展示されています。この資料館を訪れた方の中の1人が「血の匂いでいっぱいだった」と感想を残すほどに、当時の人々の様子をそのまま、リアルに残している場所です。展示されている衣類の中には、赤ん坊の血のシミがついたものもあります。これは、米軍の弾丸が赤ん坊の母親に直撃し、そのもとからスポリ、と赤ん坊が落下した時についたシミだそうです。阿波根さんは2002年に亡くなられましたが、土屋さんは「ヌチドゥタカラの家」を訪れるたびに、「阿波根さんに何度も出逢いなおしている」といいます。
3人目は寺内博中尉。寺内中尉は沖縄戦にて活躍し、殉職した特攻隊員です。土屋さんは、「沖縄の黒糖を扱うには、まずは沖縄について知らなければならない」と思い、沖縄の海について調べはじめました。この沖縄の海にはおよそ3000人の特攻隊員が眠っているそうです。そして、土屋さんと寺内中尉との出会いは、1975年に発行された書籍『村と戦争』にあります。土屋さんのお話は『村の戦争』に記載されている寺内中尉についての内容を軸に展開されました。寺内中尉は特攻隊員として出撃し、米軍との空中戦の末に命を落とし、その遺体は不幸中の幸いか、浜に打ち上げられていました。このことを、土屋さんは「特攻隊の遺体漂着」という章で知ります。享年20歳。あまりに早すぎる青年の死に沖縄でも多くの人々が嘆き、悲しみました。寺内中尉は戦争の真っ只中であっても、家族と近況や思いなどを伝える文通をつづけていたといいます。若くして星となった青年の決死の覚悟を通して、人々の戦争反対への思いはより強固なものとなりました。その裏付けとして、寺内中尉の遺族による慰霊祭が毎年のように行われています。土屋さんも寺内中尉の勇姿に魅せられ、彼を愛した人の内の1人です。
終始、胸の奥から鉛がせりあがるような気持ちで講演を聴いていました。決して楽しい内容ばかりではありませんでしたが、土屋さんの朗らかな話しぶりから、繰り出される凄惨な太平洋アジア戦争の歴史の一片が、私の脳裏に深く刻まれたと断言できます。土屋さんはご自身の学びを深める際や「ネパリ・バザーロ」での活動の際に、彼らの生き様を思い出し意識して物事を考え、活動に取り組んでいるといいます。また、土屋さんの堂々とした振る舞いや発言も印象に残りました。講演終盤の質疑応答の時間にて、学生からの質問に「人生は豊かになった」、「(このような学びは)お金では買えない」、「人こそ財産」と迷いなく回答していた姿は恰好よく、人を大切にしてきた土屋さんならではの言葉であるな、と思いました。
最後に、講演の中で感じた、私たちにもできそうな「学びの活かし方」を紹介します。土屋さん曰く「想像力を駆使すること」がこうした学びの有効的な活かし方なのだそうです。他者の話ではあるが、他人事として処理せず、自己投影を図ること。そうすれば、自ずと自身の「学び」につながるのだ、と土屋さんは主張します。私はこれまで、他者の話や物事を平面的に捉え、「教科書に記載していることだから」、「でも自分とは関係ないから」などと少し引いた目で価値判断をしがちでした。しかし、土屋さんの「想像力を駆使して自己を当てはめてみる」といった方法を知り、平面を立体にすることで現実として捉えるという視点があることに驚きました。
皆さんもこの「学びの活かし方」を実践してみてはいかがでしょうか。
国際関係学科2年 ユンダエ
コメントシートより
- 私は土屋さんのお話にとても共感しました。特に、人との出会いは財産というお言葉です。様々な人と出会うことで、自分の今までの固定観念に気がついたり、自分の知らなかった想いに出会えるということをお話から学びました。私自身もできる限り入り色々な価値観を持っている人と出会い、関わってその人たちから学んで自分のものへ吸収したいと思いました。
- 物事の捉え方は人それぞれ。それを美学とするのと、無駄ごととするのでは大きく違う。大切なのは自分ごととして捉えることである。また、その土地にあったことで支援したりすることもその土地の気持ちになって工夫していると感じた。
能登震災支援を目指していると聞き、そのように新たな挑戦が人々を救うのだと思った。私はなかなか実行に移せないので、土屋さんの実行力に感心した。戦争や貧困は近年ずっと問題になっていため、少しでも力になれる行動をしたいと講演を通じて考えた。