第8回 学生スタッフレポート
複数の自分を生きる〜「個人」と「分人」について
平野 啓一郎 氏(小説家)
「総合2022」第8回、6月16日(木)の講演は、小説家の平野啓一郎さんにお越しいただきました。平野さんは、小説を書くなかでたどり着いた「分人主義」という考え方を提唱されており、分人主義を通して生きやすい自分の在り方を探していくことについてお話しくださいました。
平野さんは、自身が1歳のとき父親が若くして突然死したことから、「この次の瞬間、自分も突然死ぬのではないか」と考えるようになったと言います。そして、その突然来るかもしれない死への恐怖から、「本当にしたいことをしておくために“本当の自分”を知らなければ」と思うようになったそうです。三島由紀夫に惹かれ文学作品に夢中だった中学生の平野さんにとって、“本当の自分”は文学作品を読んでいるときの自分でした。周りとの話が合わなかった学校などでは、人の思惑に従って振る舞っていて、“本当の自分”を生きられていないと感じていたそうです。
私たちは、様々なコミュニティに属し、多くの対人関係の中で生きており、相手やコミュニティに合わせてその振る舞いを変化させています。このとき、私たちは、“本当の自分”を生きていないのでしょうか。“本当の自分”を生きているというのはどんな状態なのでしょうか。
平野さんは、当時の学校教育で「個性を大事に」「自分らしく」ということが盛んに謳われ、テレビや漫画でも個性的に生きている人、やりたいことをやっている人が良いとされていたことから、“本当の自分”を生きること=やりたい職業に就くこと、だと考えました。しかし、就職氷河期や終身雇用制の崩壊によって、職業をアイデンティティとすることは難しくなっていきました。
そこで平野さんは、そもそも“本当の自分”という一つの自分はあるのか、と疑問を持ち、「個人」という概念について考えるようになったと言います。「個人(individual) 」は人間の最小単位とされていますが、日本では明治時代に民主主義や資本主義に合う単位として導入された概念であり、大きな組織と個人という上下関係を見るのに適した考え方だそうです。しかし、水平な関係で社会を捉えると1人の人間を「individual=これ以上分けることができないもの」と考えるのには無理があるのではないか。こう考えたことから、平野さんは1人の人間を「個人」としてまとめるのではなく、「分人」というより小さな単位で考える分人主義を生み出しました。
分人主義とは、その時々の相手やコミュニティに合わせて変化するそれぞれの自分を「分人」と呼び、すべての分人が“本当の自分”であることです。分人主義と似たような考え方に、心理学のペルソナがありますが、これは、核となる“本当の自分”がいて場面に合わせて仮面を付け替えている、という考え方であり、分人主義とは異なります。分人主義では、核となる“本当の自分”は存在せず、複数いる分人すべてが“本当の自分”であると考えるのです。
このような考え方は、なぜ必要なのでしょうか。平野さんは、「複数の自分があることが否定されがちだから」だと言います。私たちは、複数の異なる自分が存在することや、異なる自分の中に対立や矛盾があることを悪く思ったり、親しい人が自分の知らない顔を見せたとき、裏の顔があったんだと感じたり、裏切られたと感じたりする傾向にあります。しかし、社会の中で生きていくためには、そして人とコミュニケーションをとるためには、その場に合わせて振る舞うことが必要とされます。そのため、複数の自分がいることは当然のことなのです。
さらに、分人主義で言われているように、複数の自分がいることは、生きる助けにもなります。例えば、嫌いな自分や認められない自分がいたとき、私たちは自分の全てを否定してしまいがちです。しかし、分人主義を通して、嫌いなのはあくまで1人の分人であり、自分のすべてではない、好きな分人もいるかもしれないと考えることができれば、自分のすべてを否定せずともいられるようになります。好きな分人として過ごす時間を増やし嫌いな分人として過ごす時間を減らす、つまり、分人の構成比率を調整していくことで、生きやすい自分で居られるようになるのです。
このような分人の構成比率のことを、平野さんは「個性」と呼びます。「個性」、「自分らしさ」という言葉が飛び交い、個性を活かして自分らしく活動することが望ましいとされるなかで、自分の個性を見つけなければと焦り悩むことがあるかもしれませんが、分人の構成比率が個性であると考えれば、個性は獲得しようとしなくとも持っているのだと思うことができるのです。
私は、分人主義に出会ったことで、どうしても受け入れることのできない汚い自分を1人の分人として切り離して考えるようになり、自分のすべてを否定せずともいられるようになりました。それぞれの分人が持ついくつかの世界を生きているのだと捉えられたことは、矛盾を含んだ自分を整理することにもつながりました。また、人との関係を、分人同士の付き合いであると捉えるようになったことで、互いに知っている顔は分人であり全ては知り得ないこと、知らない分人がいることを、受け入れられるようになりました。分人主義という考え方を通して見えてくるもの、捉えられるものはもっともっとあるのでしょう。周囲との関係、そして社会の構造のなかで生きる複雑な自己について考えるとき、分人主義を取り入れて、より理解を深めていこうと思います。
平野さんは、自身が1歳のとき父親が若くして突然死したことから、「この次の瞬間、自分も突然死ぬのではないか」と考えるようになったと言います。そして、その突然来るかもしれない死への恐怖から、「本当にしたいことをしておくために“本当の自分”を知らなければ」と思うようになったそうです。三島由紀夫に惹かれ文学作品に夢中だった中学生の平野さんにとって、“本当の自分”は文学作品を読んでいるときの自分でした。周りとの話が合わなかった学校などでは、人の思惑に従って振る舞っていて、“本当の自分”を生きられていないと感じていたそうです。
私たちは、様々なコミュニティに属し、多くの対人関係の中で生きており、相手やコミュニティに合わせてその振る舞いを変化させています。このとき、私たちは、“本当の自分”を生きていないのでしょうか。“本当の自分”を生きているというのはどんな状態なのでしょうか。
平野さんは、当時の学校教育で「個性を大事に」「自分らしく」ということが盛んに謳われ、テレビや漫画でも個性的に生きている人、やりたいことをやっている人が良いとされていたことから、“本当の自分”を生きること=やりたい職業に就くこと、だと考えました。しかし、就職氷河期や終身雇用制の崩壊によって、職業をアイデンティティとすることは難しくなっていきました。
そこで平野さんは、そもそも“本当の自分”という一つの自分はあるのか、と疑問を持ち、「個人」という概念について考えるようになったと言います。「個人(individual) 」は人間の最小単位とされていますが、日本では明治時代に民主主義や資本主義に合う単位として導入された概念であり、大きな組織と個人という上下関係を見るのに適した考え方だそうです。しかし、水平な関係で社会を捉えると1人の人間を「individual=これ以上分けることができないもの」と考えるのには無理があるのではないか。こう考えたことから、平野さんは1人の人間を「個人」としてまとめるのではなく、「分人」というより小さな単位で考える分人主義を生み出しました。
分人主義とは、その時々の相手やコミュニティに合わせて変化するそれぞれの自分を「分人」と呼び、すべての分人が“本当の自分”であることです。分人主義と似たような考え方に、心理学のペルソナがありますが、これは、核となる“本当の自分”がいて場面に合わせて仮面を付け替えている、という考え方であり、分人主義とは異なります。分人主義では、核となる“本当の自分”は存在せず、複数いる分人すべてが“本当の自分”であると考えるのです。
このような考え方は、なぜ必要なのでしょうか。平野さんは、「複数の自分があることが否定されがちだから」だと言います。私たちは、複数の異なる自分が存在することや、異なる自分の中に対立や矛盾があることを悪く思ったり、親しい人が自分の知らない顔を見せたとき、裏の顔があったんだと感じたり、裏切られたと感じたりする傾向にあります。しかし、社会の中で生きていくためには、そして人とコミュニケーションをとるためには、その場に合わせて振る舞うことが必要とされます。そのため、複数の自分がいることは当然のことなのです。
さらに、分人主義で言われているように、複数の自分がいることは、生きる助けにもなります。例えば、嫌いな自分や認められない自分がいたとき、私たちは自分の全てを否定してしまいがちです。しかし、分人主義を通して、嫌いなのはあくまで1人の分人であり、自分のすべてではない、好きな分人もいるかもしれないと考えることができれば、自分のすべてを否定せずともいられるようになります。好きな分人として過ごす時間を増やし嫌いな分人として過ごす時間を減らす、つまり、分人の構成比率を調整していくことで、生きやすい自分で居られるようになるのです。
このような分人の構成比率のことを、平野さんは「個性」と呼びます。「個性」、「自分らしさ」という言葉が飛び交い、個性を活かして自分らしく活動することが望ましいとされるなかで、自分の個性を見つけなければと焦り悩むことがあるかもしれませんが、分人の構成比率が個性であると考えれば、個性は獲得しようとしなくとも持っているのだと思うことができるのです。
私は、分人主義に出会ったことで、どうしても受け入れることのできない汚い自分を1人の分人として切り離して考えるようになり、自分のすべてを否定せずともいられるようになりました。それぞれの分人が持ついくつかの世界を生きているのだと捉えられたことは、矛盾を含んだ自分を整理することにもつながりました。また、人との関係を、分人同士の付き合いであると捉えるようになったことで、互いに知っている顔は分人であり全ては知り得ないこと、知らない分人がいることを、受け入れられるようになりました。分人主義という考え方を通して見えてくるもの、捉えられるものはもっともっとあるのでしょう。周囲との関係、そして社会の構造のなかで生きる複雑な自己について考えるとき、分人主義を取り入れて、より理解を深めていこうと思います。
国際関係学科3年 どんぐり
コメントシートより
- 私とは何かという問いの答えに限りなく近いものが得られたと思います。アイデンティティは必ずしもひとつではなく、環境によって柔軟に変えていいし、複数持っていいのだなと感じました。
- その時その時の自分が抱く感情を大切にしたい。自分自身全体を否定するのではなく、一部分の自分であるということを理解することが大切だと学んだ。
- 「あなたと一緒にいるときの自分が好き」という分人的な考えの言葉が他者を肯定すること、反対に、他者を経由して自分を好きになれるということに気づいた。