2020年度 第18回 学生スタッフレポート
「大海」をわたった、津田梅子のあゆみ
高橋 裕子 氏(津田塾大学学長)
皆さんこんにちは!総合2020、第18回講演では津田塾大学の学長である高橋裕子先生の講演をアンコール配信しました。タイトルは、「大海をわたった、津田梅子のあゆみ」です。新しい5000円札のデザインにも選ばれ、注目を浴びている、本学の創設者津田梅子はどのような時代を、どのように生きた人物なのか、皆さんご存知でしょうか。津田梅子の生き方を見直してみることで、生涯貫き通した彼女の強い意志や衰えることのなかった向上心などが見えてきます。また、”大海を渡る”というのはどのようなことなのでしょうか。自分が今勉強していることの意味を考えさせられる講演でした。
高橋先生は、津田梅子が大海を渡って得た出会いや経験、そこから創り出された考え方などをお話ししてくださいました。梅子の意欲や強い意志が生み出した数多くの出会いが、その後の女子英学塾創設にまで大きく影響してくることとなります。皆さん知っての通り、津田梅子は6歳という若さで、女子留学生として岩倉使節団とともに渡米しました。日本の女子留学生らにとっては、アメリカは日本とは全く異なる文化や雰囲気がある場所でした。チャールズ・ランマン氏に預けられた梅子は英語やピアノ、キリスト教に親しみながら年齢を重ね、語学、英文学、自然科学や心理学など、幅広い分野を学び始めました。渡米した5人の女子留学生のうち、梅子、山川(大山)捨松、永井(瓜生)繁子は本当の姉妹のように強い絆で結ばれ、梅子が英学塾を創立した時も、2人は大きく尽力しました。彼女らはアメリカで10年間生活し、学びを深めたのち帰国しました。
帰国した彼女らは、大きな衝撃を日本で受けることとなります。幼い頃に渡米した梅子は、帰国後、日本人とコミュニケーションをとる際に通訳が必要なほどでした。また語学的な壁だけでなく、宗教の違いや女性の地位など、アメリカで当たり前だと思っていたことが、日本では全く異なっていました。特に、著しい女性の地位の低さや伝統的なしきたりが根強く残っていた日本の風潮に梅子は絶望しました。一度大海を渡った彼女らは、日本では当たり前とされる生活様式とは異なる環境で生活を送っていました。だからこそ、日本の生活を客観的に見ることができ、”どうして?”と疑問を持つことができたのです。そんな経験が、女性の地位確立や男女平等な教育の促進といった梅子の目標を明確化させ、どうしたらそんな社会を実現できるかを考えさせるきっかけとなりました。
日本の女性が男性よりも下の立場に置かれ、学びも十分に与えられていないという状況に疑問を持った梅子は、生涯、教育に携わることを決意し、ブリンマー大学へ進学しました。再び、渡米することとなったのです。日本の現状を知った梅子が、どうやったら日本の女性がもっと主体的に学び、輝くことができるかを、自分自身で考え、できることを探した末の決断でした。自由に行動することに不信感をもたれてしまいかねなかった時代に、そのような問題について考えるために、梅子は再び大海を渡ることを自分で決断し、行動に移していたのです。そのような姿に、私は梅子の確固とした意志と、やり遂げようとする目標への強い信念を感じました。
梅子はブリンマー大学に留学した後、日本に帰国し、女子英学塾を創設したものの、土地や建物の費用、教師への報酬などがかさみ、経済的に厳しい状況が続きました。しかし、梅子は決して諦めることなく、自分の目標を貫き通しました。そんな中で、渡米先で出会ったアリス・メイベル・ベーコンを初め、過去に出会った多くの人が、梅子に協力しました。それは梅子が女子英学塾を達成するために、全力を注ぎ、他者に影響を与えるほどの熱意を持って学習に励んでいたからこそであると感じます。
高橋先生がおっしゃっていた”大海を渡る”というのは、一概に、外国に行くという意味ではないと考えます。津田梅子が大海を渡って得たものは何だったのでしょうか。生まれも育ちも違う他者との出会い、自分の当たり前とは異なる環境下での生活、大海を渡って得た数多くのことが、梅子のその後の人生に大きく影響しています。自分とは異なる他者と出会い、関係を持つことで、自分の当たり前が崩れ、その土地の人の当たり前を知ることができます。
梅子は、自分がやり遂げたいことに対して、今自分は何をすべきなのかと俯瞰的に自分自身を見つめ、考えることができていたのだろうと思います。何でもできる時代だからこそ、今私は何をすべきなのかを立ち止まって考え、自分の快適な空間から一歩踏み出す勇気を持って、この津田塾大学で誇り高く、4年間を過ごしたいと思います。
高橋先生は、津田梅子が大海を渡って得た出会いや経験、そこから創り出された考え方などをお話ししてくださいました。梅子の意欲や強い意志が生み出した数多くの出会いが、その後の女子英学塾創設にまで大きく影響してくることとなります。皆さん知っての通り、津田梅子は6歳という若さで、女子留学生として岩倉使節団とともに渡米しました。日本の女子留学生らにとっては、アメリカは日本とは全く異なる文化や雰囲気がある場所でした。チャールズ・ランマン氏に預けられた梅子は英語やピアノ、キリスト教に親しみながら年齢を重ね、語学、英文学、自然科学や心理学など、幅広い分野を学び始めました。渡米した5人の女子留学生のうち、梅子、山川(大山)捨松、永井(瓜生)繁子は本当の姉妹のように強い絆で結ばれ、梅子が英学塾を創立した時も、2人は大きく尽力しました。彼女らはアメリカで10年間生活し、学びを深めたのち帰国しました。
帰国した彼女らは、大きな衝撃を日本で受けることとなります。幼い頃に渡米した梅子は、帰国後、日本人とコミュニケーションをとる際に通訳が必要なほどでした。また語学的な壁だけでなく、宗教の違いや女性の地位など、アメリカで当たり前だと思っていたことが、日本では全く異なっていました。特に、著しい女性の地位の低さや伝統的なしきたりが根強く残っていた日本の風潮に梅子は絶望しました。一度大海を渡った彼女らは、日本では当たり前とされる生活様式とは異なる環境で生活を送っていました。だからこそ、日本の生活を客観的に見ることができ、”どうして?”と疑問を持つことができたのです。そんな経験が、女性の地位確立や男女平等な教育の促進といった梅子の目標を明確化させ、どうしたらそんな社会を実現できるかを考えさせるきっかけとなりました。
日本の女性が男性よりも下の立場に置かれ、学びも十分に与えられていないという状況に疑問を持った梅子は、生涯、教育に携わることを決意し、ブリンマー大学へ進学しました。再び、渡米することとなったのです。日本の現状を知った梅子が、どうやったら日本の女性がもっと主体的に学び、輝くことができるかを、自分自身で考え、できることを探した末の決断でした。自由に行動することに不信感をもたれてしまいかねなかった時代に、そのような問題について考えるために、梅子は再び大海を渡ることを自分で決断し、行動に移していたのです。そのような姿に、私は梅子の確固とした意志と、やり遂げようとする目標への強い信念を感じました。
梅子はブリンマー大学に留学した後、日本に帰国し、女子英学塾を創設したものの、土地や建物の費用、教師への報酬などがかさみ、経済的に厳しい状況が続きました。しかし、梅子は決して諦めることなく、自分の目標を貫き通しました。そんな中で、渡米先で出会ったアリス・メイベル・ベーコンを初め、過去に出会った多くの人が、梅子に協力しました。それは梅子が女子英学塾を達成するために、全力を注ぎ、他者に影響を与えるほどの熱意を持って学習に励んでいたからこそであると感じます。
高橋先生がおっしゃっていた”大海を渡る”というのは、一概に、外国に行くという意味ではないと考えます。津田梅子が大海を渡って得たものは何だったのでしょうか。生まれも育ちも違う他者との出会い、自分の当たり前とは異なる環境下での生活、大海を渡って得た数多くのことが、梅子のその後の人生に大きく影響しています。自分とは異なる他者と出会い、関係を持つことで、自分の当たり前が崩れ、その土地の人の当たり前を知ることができます。
梅子は、自分がやり遂げたいことに対して、今自分は何をすべきなのかと俯瞰的に自分自身を見つめ、考えることができていたのだろうと思います。何でもできる時代だからこそ、今私は何をすべきなのかを立ち止まって考え、自分の快適な空間から一歩踏み出す勇気を持って、この津田塾大学で誇り高く、4年間を過ごしたいと思います。
英語英文学科1年 ぱん丸
コメントシートより
- 津田梅子の行動力や考え方はとてもかっこいいと感じた。女性の教育という概念があまりない時代に自分自身でコンフォートゾーンを抜け出し視野を広げ様々なことを吸収すことはそう簡単にできないと思う。女性の教育への熱量が高く目標をしっかり持っていたからではないかと思った。また、専門性を極めすぎないように英語だけではなく生物学を学んでいたのは初めて知り自分も多様な学問を積極的に学んでいこうと考えた。私もロールモデルを持ち、自分をコンフォートゾーンから抜け出せるようなことに挑戦し続けたいと思う。
- 日本という慣れ親しんだ場所から、異なった言語・文化・習慣の場所に10年もの長い間飛び込むのはとても勇気のいることだと思う。しかし津田梅子は自分がやりたいこと、やるべきことに向かって歩き続け、学び続ける姿は素晴らしいと感じた。私は失敗が怖いため、今まであまり挑戦をしようとはせず、平坦な道ばかりを選択していた。しかし、常に挑戦し続けること、失敗を恐れず自分の力を信じ続けることが成功に繋がると今回の講義を聞いて学ぶことができた。私は自分の力を信じられるようにするために、自分が満足いく自分でいられるように、常に努力していこうと思う。
- 津田梅子は、自分の立ち位置からその先の自分の目標への道のりを考えて、日々を過ごしていたように思う。自分の先の世界を考えることは容易ではないし、自分がどこまでできるかもわからない。そんな不安ももちろんあっただろうと考えるが、そんなことは関係ないというように、日本の未来のために、前を向いて生きていたそんな人物であった。