津田塾の歴史

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津田梅子について

女性の力にかけた夢

女性の高等教育をめざす私塾「女子英学塾」として、1900年に産声を上げた津田塾大学。創立者・津田梅子は、女性の地位向上こそ日本の発展につながると信じて、「男性と協同して対等に力を発揮できる女性の育成」をめざし、女性の高等教育に生涯を捧げました。
津田梅子の教育姿勢は現在の津田塾大学にしっかりと根づいています。

1871

6歳の旅立ち

「アメリカ留学—津田梅子」守屋多々志作屏風絵

1871年(明治4)12月、横浜を出港した欧米視察の「岩倉使節団」一行の中に幼い少女の姿がありました。それは、北海道開拓使が募集した日本最初の女子留学生5人のうち最年少の津田梅子、満6歳です。一行を乗せたアメリカ丸は翌1872年(明治5)1月サンフランシスコ着、梅子がシカゴを経由してワシントン近郊のジョージタウンに住むランマン夫妻の家に預けられたのは、日本を発ってから70日後のことでした。

米国留学免許状
津田梅子の着物

1871年(明治4)12月に横浜を出港する際に着用していました。

渡米直後、7歳頃にワシントンで撮影

1873

受洗

キリスト教の洗礼を受けた直後の津田梅子
(8~9歳頃)

1873年春、梅子はキリスト教の洗礼を受けたいとランマン夫妻に打ち明けました。梅子の受洗は、同年7月13日フィラデルフィア近郊、ブリッジポートのオールド・スウィーズ・チャーチ(アッパーメリオン・キリスト教会)で行われました。ペリンチーフ司祭は当初、梅子に幼児洗礼を授けようと考えていましたが、彼女がたいへんしっかりしていたことから、成人の洗礼を授けたことが記録に残っています。

1882

帰国

18歳頃

梅子はランマン夫妻のもとで現地の初等・中等教育を受け、アメリカの生活文化を吸収して成長しました。そして11年後の1882年(明治15)11月、帰国の途につきます。アメリカで少女時代を送った梅子にとって、帰国後の日本はカルチャーショックの連続でした。

1889-1892

再度のアメリカ留学

1889年(明治22)ブリンマー大学入学当時

帰国後、梅子は日本女性の置かれていた状況に驚き、その地位を高めなければという思いを募らせ、国費留学生として自分が得たものを日本女性と分かち合いたいと考えていましたが、機会はなかなかめぐってはきませんでした。しかし、伊藤博文の勧めで華族女学校の教授をするかたわら、自分自身の学校をつくる夢を持ち続け、ついに再度アメリカへ留学することを決意します。

ブリンマー大学在学中(1889~1892年)24~25歳頃の 津田梅子 【出典:ブリンマー大学】

ブリンマー大学で質の高い少人数教育を受けた経験が、その後の梅子の教育観へとつながってゆきます。また、在学中から、自分のあとに続く日本女性のための奨学金制度(「日本婦人米国奨学金」委員会)を設立しました。

”The Orientation of the Frog’s Egg”

梅子はブリンマー大学で生物学を専攻し、1890年6月、Prof. Thomas Hunt Morgan(1866-1945)との共同研究で蛙の卵の発生についての論文を執筆しました。その後、論文は1894年にイギリスの学術雑誌に発表されました。

梅子が記録した蛙の受精卵の図

1892-1899

開校準備

1899年3月、梅子が英国でフローレンス・ナイチンゲールより贈られた花束の押し花

帰国後は再び華族女学校他で教鞭をとるかたわら、デンバーで開催された万国婦人クラブ連合大会出席、ヘレン・ケラー訪問、ナイチンゲールとの会見など、多方面から多くの刺激を受けて、日本女性のための高等教育に力を尽くす決意を固めます。

1900

女子英学塾開校

女子英学塾開校当時の津田梅子

1900年(明治33)、津田梅子はついに私立女子高等教育における先駆的機関のひとつである「女子英学塾」を創設します。梅子は開校式で次のように語りました。真の教育には、教師の熱心、学生の研究心が大切であること、また、学生の個性に応じた指導のためには少人数教育が望ましいこと、さらに人間として女性としてall-roundでなければならないこと。この言葉は津田塾の教育精神として受け継がれ、津田梅子が蒔いた小さな種は大きな花を咲かせました。卒業生は今も多くの分野で着実に道を切り拓き、様々な変革を実践しています。

最初の校舎にて(麹町区一番町)

入学者10名は東京以外からも、横浜、広島、群馬、鹿児島など全国から上京しました。

開校時の協力者たち(左より 津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松)

大山捨松、瓜生繁子はもちろん塾創設への協力を惜しみませんでしたが、アメリカ留学の際に捨松のホストシスターだったアリス・ベーコンも開校式に先駆けて来日し、梅子とともに入学試験やクラス分けなどを担当しました。

五番町へ

1903年2月、五番町へと校舎を移し、4月2日第一回卒業式を行いました。卒業生は本科2名、撰科6名、計8名でした。

第一回卒業式記念写真

1929

逝去

晩年の肖像(1927年(昭和2)撮影)

1929年(昭和4)8月16日、鎌倉の別荘にて病没しました。絶筆は同日の日記に記された "Storm last night" 、享年64歳でした。

津田梅子の建学の精神

受け継がれる建学の精神 <1900年 女子英学塾開校式辞より>

真の教育には物質上の設備以上に、もっと大切なことがあると思います。
それは、一口に申せば、教師の資格と熱心と、それに学生の研究心とであります。

教室は静かにノートを取る場所ではなく、自分の意見を述べ、時には教員と意見を交える場でもあるという習慣は、創立以来変わらぬ津田塾の伝統。学びに向かう教師と学生の心にこそ、学問の本質は受け継がれるのです。

人々の心や気質は、その顔の違うように違っています。
したがって、その教授や訓練は、一人々々の特質に、しっくりあてはまるように仕向けなくてはなりません。

個性を重んじ、少人数教育を貫くこと。津田梅子が開校式で掲げたこの理念は、今も脈々と受け継がれています。 “一人ひとりに目の行き届く教育体制”によって確かな基礎学力と高度な専門性を身につけます。

英語を専門に研究して、英語の専門家になろうと骨折るにつけても、完き婦人となるに必要な他の事柄を忽せ(ゆるがせ)にしてはなりません。
完き婦人即ちall-round women となるよう心掛けねばなりません。

津田梅子は、「英語をとおして世界に目を向けられる人間を育てる」との理想を掲げると同時に、「英語の技術修得のみに熱中せず、視野の広い女性であれ」とも学生を励ましました。豊かな教養と高い専門性を備えることは、津田塾の伝統です。

写真で見る津田塾

1900年〜

1901女子英学塾最初の校舎

麴町区一番町15番地校舎前庭にて。前列中央に津田梅子。

1901開校当時の協力者たち

津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松

1903五番町校舎

女子英学塾は麴町区一番町から元園町を経て五番町の英国大使館隣接の地に移転した。写真の校舎は関東大震災による火災で焼失した。

1918女子英学塾卒業生就任地

津田梅子は塾長室の地図に赤い印をつけて卒業生の就任地を確認していた。勤務先はおもに高等女学校であった。

1920年〜

1923関東大震災・塾、灰燼に帰す

1923年(大正12)9月1日深夜、地震後の火災のため五番町校舎は全焼した。

1923塾復興救済活動開始

梅子の教育理念の理解者であり、1902年の来日以来、塾で教鞭をとっていたアナ・C・ハーツホンは、震災直後の9月下旬に単身渡米し、精力的献身的に救済募金活動を展開した。その結果、1931年(昭和6)末までにアメリカの復興委員会による募金は利子を含め100万円を超える額となった。

1923アメリカでの募金活動

サンフランシスコ、フィラデルフィア、ワシントン、ニューヨーク、ボストンなどアメリカ各地で「女子英学塾臨時救済委員会」が組織され、同委員会は、寄付依頼の手紙とともに、梅子の経歴、塾の歴史とその目指すところを詳しく説明したパンフレットを大量に配付した。

1924五番町仮校舎

アナ・C・ハーツホンが中心となった救援募金活動によりアメリカから輸入した大量の資材によって最初の仮校舎が完成したのは、1924(大正13)年1月だった。授業再開見込みの通知は、関東大震災から2週間後には早くも塾生たちに送られていた。

19292代塾長 星野あい

1906(明治39)年 女子英学塾卒業(第4回生)。津田梅子が創設した日本婦人米国奨学金を受けブリンマー大学へ留学。その後英学塾の講師となる。津田梅子から後を託され、1929(昭和4)年 女子英学塾塾長就任。1952(昭和27)年に辞任するまで塾の運営と発展に心血を注いだ。

1930年〜

1931小平へ

新校舎落成式は1932(昭和7)年5月に行われ、後年、ハーツホン・ホールと名づけられた。

1931小平キャンパス鳥瞰図

1931(昭和6)年落成時の図。本館校舎(中央)、東・西寮(左)

1930年代学生寮

小平キャンパスには本館校舎とともに、当時としては日本一、あるいは東洋一とも称される最新の設備を備えた東寮・西寮、2棟の学生寮が建てられた。

1940年〜

1940年代太平洋戦争下の津田塾(津田こどもの家)

戦時中の託児所は、近隣農村女性の育児の労の軽減と、塾と地域社会との融合を願って作られた。

1940年代太平洋戦争下の津田塾(学校農園)

1940~1944(昭和15~19)年頃、戦時の食糧難対策として、寄宿舎・運動場などにはサツマイモ畑が作られていた。

1943理科新設認可・「津田塾専門学校」へ改称

1943年4月より、英文学科のほかに理科を新設し、校名を「津田塾専門学校」と改称した。当該年度の理科の志願者は数学科62名、物理化学科99名を数え、試験の結果、理科には58名が入学した。

1944学校工場

太平洋戦争下、国内教育現場における戦時非常措置の流れの中で、津田塾でも1944(昭和19)年3月から体育館と生徒控室を作業場として学校工場が始まった。学外に出て空襲にあう危険を減らし、作業の合間に少しでも授業時間がとれるようにとの配慮だった。

1948新制「津田塾大学」設立

1948年3月25日付で「津田塾大学」が設立認可され、英文学科を開設した。数学科が増設された翌年、ふたつの学科を持つ学芸学部となった。
写真は当時の学長・星野あいと談笑する藤田たき、Miss Becka Morton(1947年 第一回記念祭にて)

1954図書館落成

1948年に大学昇格記念事業として建築資金募集を開始した新図書館は1954年(昭和29)6月に竣工した。新図書館建設への功績を讃え、1973年(昭和48)に星野あい記念図書館と命名された。

1960年〜

1960創立60周年

60周年記念事業として、特別教室や研究室、語学研究所を含む新館の建設と中庭の整備が行われた。

1960語学研究所設立

語学研究所には、ランゲージ・ラボラトリー、演習室、テープ・ライブラリー、録音室等の教育研究施設が設けられた。教育部門のラボラトリーには、テープレコーダーを備えた個別ブースがあり、教員はマスター卓より各ブースの学生の練習状況をモニターしながら個別指導ができるようになっていた。

1964白梅寮

1964(昭和39)年春、「津田梅子生誕100年」記念事業のひとつとして、新しい学生寮が小平キャンパス内西北隅に建設された。1932年に建てられた東・西寮は一人部屋もしくは二人部屋だったのに対し、新設の寮は二段ベッドが設置された四人部屋で、収容人数182名だった。新寮は「白梅寮」と命名された。

1964チャペル献堂

同じく記念事業の一環として、学生たちが静かに自らを顧みることのできるチャペルが建設され、献堂式は1964年(昭和39)5月9日に行われた。

1969国際関係学科設置認可

国際社会の変転にともない、藤田たき学長(写真)の指揮のもと、広い国際的視野と語学的素養を基礎とし、専門的・積極的に社会に寄与できる女性を育てる「国際関係学科」が新しく設けられた。

1975国際関係研究所設置

国際関係学という新しい分野において、若手研究者の研究継続の場を提供することを目的の一つとして国際関係研究所が設立された。

1980年〜

1980創立80周年

80周年記念事業として、津田梅子の執筆した文書をまとめた『津田梅子文書』の刊行と、
「大学ホール」の建設が行われた。

1984津田梅子直筆の手紙発見

ハーツホン・ホールの屋根裏部屋で、複数の古いトランクに入った大量の文書が見つかった。大部分は津田梅子直筆、アデライン・ランマン宛の私信であり、当時の日本とアメリカを知る資料としても貴重なものであった。

1988数学・計算機科学
研究所設置

純粋数学、応用数学、計算機科学に関する研究を企画、組織するために設置され、同研究所が主催する研究集会には国内外から研究者が参集した。また、本学数学科の教員と中学、高校で数学を教えている卒業生とが協同で開催する研究集会は教育現場との意見交換の場となった。

1990視聴覚センター棟落成

5号館・視聴覚センター棟は創立90周年記念事業の一環として計画された。LL教室、視聴覚教室、スタジオ、同時通訳ブースのほか、1階には各種語学教材・視聴覚資料と視聴用ブースが完備したAVライブラリーも設置された。

1992屏風絵「アメリカ留学(津田梅子)」

1992年3月、視聴覚センター1階ホールに1990年の院展に出品された守屋多々志筆四曲一隻屏風絵「アメリカ留学(津田梅子)」が設置された。津田梅子は左から2番目、手すりに上って前方を見つめる少女として描かれている。

2000年〜

2000創立100周年

創立100周年を記念して、津田梅子記念交流館の建設、図書館および津田梅子資料室の整備、津田梅子の卒業式式辞CDの制作など、各種の事業が行われた。

2001本館校舎東京都歴史的建造物に

昭和7年に落成した、佐藤功一設計のハーツホン・ホールが「伝統への回帰という昭和初期の建築界の傾向を反映した作品」として東京都から歴史的建造物に指定された。

2010創立110周年

創立110周年記念事業として、2010年7月に7号館、2012年3月に新寮が落成した。写真は新白梅寮。

2017総合政策学部総合政策学科開設

千駄ヶ谷キャンパスに総合政策学部を設置。校舎名を、女子英学塾の英語教師として赴任し、1902年4月に任期満了で帰国するまで貢献したアリス・メイベル・ベーコンにちなんで「アリス・メイベル・ベーコン記念館」と命名。
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