2025年度「津田梅子賞」受賞者
本学創立110周年を記念し創設した「津田梅子賞」は、今年で15回目を迎え、 全国からご推薦をいただきました。
選考の結果、今年度の受賞者は次の方に決定いたしました。
今野 由梨 氏 (ダイヤル・サービス株式会社 代表取締役社長)
生まれ故郷である三重の桑名市から、東京の4年制大学に進学したのは女で初めて、大学を卒業して新しいTV番組の企画から取材、出演から始まって、1964年のNY世界博で日本の広報委員等々数えきれない重要な「女で初めて」を続けて来ました。
1969年、世界で初めてのソーシャル・ニュービジネスを起業して今年57期目。間もなく90歳。
今は国境なきお母さん、ベンチャーの母、健康長寿のモデル等と言われて、近隣諸国の偉い息子、娘たちからまで慕われるように・・・。
そんな私が、この栄誉ある「津田梅子賞」を頂くことになり、遅ればせながら、後輩の為にも、『さあ、ここから!』と一段と気合いが入りました。
今後ともよろしくお願いいたします。
1969年、世界で初めてのソーシャル・ニュービジネスを起業して今年57期目。間もなく90歳。
今は国境なきお母さん、ベンチャーの母、健康長寿のモデル等と言われて、近隣諸国の偉い息子、娘たちからまで慕われるように・・・。
そんな私が、この栄誉ある「津田梅子賞」を頂くことになり、遅ればせながら、後輩の為にも、『さあ、ここから!』と一段と気合いが入りました。
今後ともよろしくお願いいたします。
受賞者紹介
1936年三重県桑名市生まれ。1959年に津田塾大学英文学科を卒業後、女性であることを理由に就職ができずアルバイトで生計を立てたことで、「10年後にニュー・ビジネスを興す。会社を設立する。」と決意。
1964年、NY万国博覧会(日本館)のコンパニオンで日本初の女性広報委員となる。1965年、欧州の電話秘書サービス(TAS)と電話情報サービス機関SVP(シル・ヴ・プレ社)を視察する。
1967年に帰国し、1969年、6名の女性とともにダイヤル・サービス株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。日本初の電話秘書サービス(TAS:Telephone Answering Service)を開始。
赤ちゃん110番(1971年)、子ども110番(1979年)、熟年110番(1981年)、ヤング・トーク・トーク・テレホン(1981年)、健康相談(1987年)、アメリカ生活110番(1988年)、ボランティア・アクティビティ・ホットライン(1993年)、セクハラ・ホットライン(1999年)、メンタルヘルス・ホットライン(2009年)、認知症TESTER(2014年)、生きるんダイヤル(2021年)など、時代のニーズに応える多数の電話相談サービスを展開し、育児、いじめ、健康相談、メンタルヘルス、ハラスメント、企業倫理といった多岐にわたるビジネスを展開。
また、今野氏は「ベンチャーの母」として、「国境なきお母さん」として、若手起業家への支援も積極的に行い、中国・韓国などのアジアのリーダーからも慕われている。内閣府、郵政省、通商産業省、文部省などの審議委員も歴任し、公的にも女性活躍機会増進のため尽力してきた。
上記のような今野氏の活躍は、変革を担う女性として、時代とともに形を変え、社会のニーズに即しながら女性活躍を後押しするものであり、後進の支援活動に情熱を傾けた津田梅子がめざしていた次世代の育成に共鳴する部分があり、本賞受賞に値すると考える。
1964年、NY万国博覧会(日本館)のコンパニオンで日本初の女性広報委員となる。1965年、欧州の電話秘書サービス(TAS)と電話情報サービス機関SVP(シル・ヴ・プレ社)を視察する。
1967年に帰国し、1969年、6名の女性とともにダイヤル・サービス株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。日本初の電話秘書サービス(TAS:Telephone Answering Service)を開始。
赤ちゃん110番(1971年)、子ども110番(1979年)、熟年110番(1981年)、ヤング・トーク・トーク・テレホン(1981年)、健康相談(1987年)、アメリカ生活110番(1988年)、ボランティア・アクティビティ・ホットライン(1993年)、セクハラ・ホットライン(1999年)、メンタルヘルス・ホットライン(2009年)、認知症TESTER(2014年)、生きるんダイヤル(2021年)など、時代のニーズに応える多数の電話相談サービスを展開し、育児、いじめ、健康相談、メンタルヘルス、ハラスメント、企業倫理といった多岐にわたるビジネスを展開。
また、今野氏は「ベンチャーの母」として、「国境なきお母さん」として、若手起業家への支援も積極的に行い、中国・韓国などのアジアのリーダーからも慕われている。内閣府、郵政省、通商産業省、文部省などの審議委員も歴任し、公的にも女性活躍機会増進のため尽力してきた。
上記のような今野氏の活躍は、変革を担う女性として、時代とともに形を変え、社会のニーズに即しながら女性活躍を後押しするものであり、後進の支援活動に情熱を傾けた津田梅子がめざしていた次世代の育成に共鳴する部分があり、本賞受賞に値すると考える。
2025年度津田梅子賞贈賞式
2025年10月12日(日)、津田梅子記念会&ホームカミングデーの中で津田梅子賞の贈賞式が行われました。
贈賞式でのスピーチ
私は、ダイヤル・サービス株式会社の今野由梨と申します。
この度は、思いがけず名誉ある賞をいただき、心より感謝申し上げます。
本日お伝えしたいのは「起こったことには意味がある」ということです。私の人生は、9歳の戦争体験から大きく変わりました。空襲によって、生まれ育った美しい町、我が家、学校や歴史文化の象徴である神社仏閣まで一瞬ですべて灰になり、何と私自身まで一度死んで生き返る奇跡の体験をしました。見知らぬ男性に背負われて生き返ったその瞬間から、「自分は何のために生き返らせられたのか」という問いが心に芽生えました。
津田塾大学に進学したのも、戦争体験を通じて「罪なき子どもを戦争で殺さないで」とアメリカに伝える使命を感じたからです。中学時代、東京から来られた女性教師に津田塾大学の存在を教わり、「あなたが行くべきはここ!」と背中を押され、女性がなぜ東京の四年制大学に!という周囲の反対を押し切って進学しました。
1959年、津田塾大学を卒業しましたが、就職活動では全社不採用でした。「仕事は男性がする。女性は命ぜられた事にニコニコハイハイ従えば良い。」何でも自分の意見を言おうとする女は不要と言われ、深く傷つきましたが、その時芽生えた使命感がその後の原動力となり、女性の未来を切り開くのは自分だと決意しました。
就職に失敗した後は逆に、多彩なアルバイトを通じて実力を認められ、数多くの新聞、雑誌、テレビ番組の企画、出演、そして何と曽野綾子原作で松竹映画「ぜったい多数」という映画にまでなりました。1969年5月1日、卒業からちょうど10年後、世界初の電話を使った情報サービス会社「ダイヤル・サービス株式会社」を創業。情報は上から降りてくるものではなく、一般市民が発信者になって国民の声を国に届け新しい時代を創るのだ、という強い信念をもって。
育児に悩む母親たちがいつでも相談できる世界初の電話による育児相談サービスを立ち上げました。それが新聞に小さく取り上げられた瞬間に、全国から電話が殺到し、何度も回線がパンク。国からは「電話は国の財産」「法律違反」「規制違反」と叱責され、何度もしょっ引かれましたが、社員達と何があろうと絶対に負けない、泣かないと誓い、笑って戦い抜きました。電話を通じて寄せられる声は、もう死ぬと泣き叫ぶ子供や若者、お年寄りの切実な叫びでした。私達は「命に寄り添うサービス」として、24時間365日絶えることなくその声に耳を傾け命に寄り添い続けることが、自分の使命だと信じてがんばり抜きました。
現在は「ベンチャーの母」「国境なきお母さん」と呼ばれ、かつて関係が難しかった国々のリーダーたちとも長年信じ難いほどの熱い信頼関係を築いて来ました。彼らに本音で語ると涙を流されることもあり、「あなたのような人が必要だった、お母さんになって!!」と言われ、今では沢山のすばらしい息子と娘ができました。今まで何かあると必ず飛んで来てくれる、これ以上の財産があるでしょうか。
もうすぐ90歳になりますが、「死んでいる暇がない」と奔走の日々です。医師達からは「よく生きているね」と言われますが、特別な健康法はなく、ただ与えられた使命に真っすぐ向き合っているだけです。
私は日本を代表する超著名なベンチャー創業者たちからも「お母さん」と呼ばれ、彼らが大成功した今でも親子のような関係を続けています。彼らは「もしあの時代に今野由梨がいなかったら、僕たちもいなかった」と言ってくれます。私は自分のビジネスを犠牲にしてでも、彼らのために国の法・規制と戦いました。この国で、後から続く可愛いすばらしいけもの達の為に人生を賭けて「けもの道」を切り拓いて来ました。
世界の著名な大成功者を、可愛いけもの呼ばわりするのは貴女だけだと。嬉しいです。 若い起業家たちには、「起こったことには意味がある」と伝えたい。困難、試練は天からの贈り物、それを乗り越える過程で人は多くを学び苦難に打ち勝つ英知とパワーを得られるのです。
どうか皆さんも、利他の心を忘れずに使命に向かわれて歩み続けてください。
あと30年は現役で頑張ります。
本日は本当にありがとうございました。
この度は、思いがけず名誉ある賞をいただき、心より感謝申し上げます。
本日お伝えしたいのは「起こったことには意味がある」ということです。私の人生は、9歳の戦争体験から大きく変わりました。空襲によって、生まれ育った美しい町、我が家、学校や歴史文化の象徴である神社仏閣まで一瞬ですべて灰になり、何と私自身まで一度死んで生き返る奇跡の体験をしました。見知らぬ男性に背負われて生き返ったその瞬間から、「自分は何のために生き返らせられたのか」という問いが心に芽生えました。
津田塾大学に進学したのも、戦争体験を通じて「罪なき子どもを戦争で殺さないで」とアメリカに伝える使命を感じたからです。中学時代、東京から来られた女性教師に津田塾大学の存在を教わり、「あなたが行くべきはここ!」と背中を押され、女性がなぜ東京の四年制大学に!という周囲の反対を押し切って進学しました。
1959年、津田塾大学を卒業しましたが、就職活動では全社不採用でした。「仕事は男性がする。女性は命ぜられた事にニコニコハイハイ従えば良い。」何でも自分の意見を言おうとする女は不要と言われ、深く傷つきましたが、その時芽生えた使命感がその後の原動力となり、女性の未来を切り開くのは自分だと決意しました。
就職に失敗した後は逆に、多彩なアルバイトを通じて実力を認められ、数多くの新聞、雑誌、テレビ番組の企画、出演、そして何と曽野綾子原作で松竹映画「ぜったい多数」という映画にまでなりました。1969年5月1日、卒業からちょうど10年後、世界初の電話を使った情報サービス会社「ダイヤル・サービス株式会社」を創業。情報は上から降りてくるものではなく、一般市民が発信者になって国民の声を国に届け新しい時代を創るのだ、という強い信念をもって。
育児に悩む母親たちがいつでも相談できる世界初の電話による育児相談サービスを立ち上げました。それが新聞に小さく取り上げられた瞬間に、全国から電話が殺到し、何度も回線がパンク。国からは「電話は国の財産」「法律違反」「規制違反」と叱責され、何度もしょっ引かれましたが、社員達と何があろうと絶対に負けない、泣かないと誓い、笑って戦い抜きました。電話を通じて寄せられる声は、もう死ぬと泣き叫ぶ子供や若者、お年寄りの切実な叫びでした。私達は「命に寄り添うサービス」として、24時間365日絶えることなくその声に耳を傾け命に寄り添い続けることが、自分の使命だと信じてがんばり抜きました。
現在は「ベンチャーの母」「国境なきお母さん」と呼ばれ、かつて関係が難しかった国々のリーダーたちとも長年信じ難いほどの熱い信頼関係を築いて来ました。彼らに本音で語ると涙を流されることもあり、「あなたのような人が必要だった、お母さんになって!!」と言われ、今では沢山のすばらしい息子と娘ができました。今まで何かあると必ず飛んで来てくれる、これ以上の財産があるでしょうか。
もうすぐ90歳になりますが、「死んでいる暇がない」と奔走の日々です。医師達からは「よく生きているね」と言われますが、特別な健康法はなく、ただ与えられた使命に真っすぐ向き合っているだけです。
私は日本を代表する超著名なベンチャー創業者たちからも「お母さん」と呼ばれ、彼らが大成功した今でも親子のような関係を続けています。彼らは「もしあの時代に今野由梨がいなかったら、僕たちもいなかった」と言ってくれます。私は自分のビジネスを犠牲にしてでも、彼らのために国の法・規制と戦いました。この国で、後から続く可愛いすばらしいけもの達の為に人生を賭けて「けもの道」を切り拓いて来ました。
世界の著名な大成功者を、可愛いけもの呼ばわりするのは貴女だけだと。嬉しいです。 若い起業家たちには、「起こったことには意味がある」と伝えたい。困難、試練は天からの贈り物、それを乗り越える過程で人は多くを学び苦難に打ち勝つ英知とパワーを得られるのです。
どうか皆さんも、利他の心を忘れずに使命に向かわれて歩み続けてください。
あと30年は現役で頑張ります。
本日は本当にありがとうございました。
ダイヤル・サービス株式会社
代表取締役社長

代表取締役社長





